別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月28日土曜日

曾我兄弟の仇討ち・・・

1193年(建久4年)、源頼朝は富士裾野で大規模な巻狩を催します。頼朝を中心とする東国武士の力を公家に認めさせるための大軍事演習だったと考えられています。

さて、その巻狩で起きた事件といえば「曾我兄弟の仇討ち」です。曾我十郎祐成と曾我五郎時致が親(父:河津祐通(祐泰))の仇として工藤祐経を討った事件です。

1193年(建久4年)5月28日のことでした。

仇討ち後、兄十郎祐成は仁田忠常に討たれ、弟五郎時致は御所五郎丸に捕らえられ処刑されたと伝えられています。


曾我の里にある曾我兄弟の墓

曾我兄弟の菩提寺「城前寺」(小田原市曽我谷津)にある五輪塔です。

曾我兄弟は曾我氏の血を引く者ではありませんが、母満江御前が曾我祐信と再婚したことにより曾我の里に移り住んだのだといいます。

曾我兄弟の五輪塔の右には、曾我祐信と母満江御前の五輪塔も建てられています。

城前寺では、仇討ちが決行された5月28日に「曾我の傘焼まつり」が行われます。

仇討ちの際に傘を松明の代わりにしたという故事から催されているもので、

曾我兄弟の霊を慰める祭です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


曾我兄弟の祖父伊東祐親と、兄弟に討たれた工藤祐経との間には所領問題が発生していました。

伊東祐親に所領を横領された工藤祐経は、郎等に狩りに出た祐親を襲わせますが、殺されてしまったのは曾我兄弟の父河津祐通(祐泰)でした。

(どちらが悪いといえば、「先に工藤祐経の所領を横領した伊東祐親がいけないのでは」という感じもありますが・・・。)

幼かった曾我兄弟は母満江御前の再婚によって曾我の里に移り住みます。

その後、元服した十郎祐成は曾我の家督を継ぎ、弟五郎時致は箱根権現に預けられたといいます。

1180年(治承4年)、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が挙兵します。

曾我兄弟の養父曾我祐信は、大庭景親に従って頼朝に敵対しますが、頼朝が鎌倉に入ると投降し許されています。

曾我兄弟の祖父伊東祐親は、石橋山の合戦大庭景親と協力して頼朝を破りますが、のちに捕らえられ自害したと伝えられています(一説には処刑されたといいます(参考:鐙摺山)。)



伊東祐親といえば・・・

頼朝と八重姫との恋を引き裂いた者として語られている人物です(参考:真珠院)。

そして、北条時政の前妻は祐親の娘ともいわれています。

ということは、頼朝の妻北条政子や二代執権となる北条義時は祐親の孫ということになります。


工藤祐経は・・・

頼朝追討の急先鋒だった伊東祐親とは違って工藤氏系の武将は頼朝方だったといいます。

工藤祐経は京にいたようですが鎌倉に下り頼朝に仕えるようになります。

歌舞音曲に優れた祐経は、

1184年(元暦元年)、一ノ谷の合戦で捕らえられた平重衡を慰めるために設けられた宴席で、鼓を担当しています(参考:教恩寺)。

1186年(文治2年)、鶴岡八幡宮の若宮回廊で披露された静の舞でも、鼓を担当しました。


實相寺

材木座の實相寺は工藤祐経邸のあった場所と伝えられ、開山の日昭は祐経の孫にあたるといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


曾我兄弟とそれを取り巻く人間関係はかなり複雑です。

兄弟の父河津祐通(祐泰)は伊東氏系ですが、曾我氏は工藤系の武将です。兄が十郎で弟が五郎というのにも何か違和感があります。

弟五郎時致の烏帽子親は北条時政だという説もあります。

兄の名には伊東氏や工藤氏に使われている「祐」の字が使われているのに、弟には使われず「時」の字が使われたのはこのためでしょうか?

曾我兄弟による仇討ちが決行されたことにより、現場は大混乱の状況だったといいます。

鎌倉への使者は、「頼朝も嫡子頼家も命を落とした」と伝えたそうです。

それを聞いた北条政子は気を失いそうになりますが、その時、頼朝の弟範頼は「私がいるから大丈夫です」と慰めたといいます。

のちにこのことを聞いた頼朝は、範頼を「謀叛の疑いあり」として伊豆修禅寺に幽閉しています(参考:源範頼の謀叛)。

修禅寺に幽閉された範頼は、間もなく梶原景時に攻められ自刃した伝えられています。

そして、『吾妻鏡』には、範頼の処分とともに、「十郎祐成の一腹の兄弟の原小次郎が誅された」ということが記されているようです。

一腹の兄弟ですので父は工藤祐経に殺された河津祐通ということになるのでしょうか?

『吾妻鏡』の記事では、十郎祐成と五郎時致のもう一人の兄弟が範頼と関係があったということになります。

ということは、十郎祐成も五郎時致も範頼と通じていたということでしょうか?

北条時政が何やら関わってもいそうです。

五郎時致の烏帽子親という説もありますし、十郎祐成を成敗した仁田忠常は、時政とはかなり関係の深い武将です(のちに起こる比企の乱では、比企能員を暗殺しています。)。


曾我兄弟の仇討ちは「日本三大仇討ち」といわれ、『曾我物語』では、親孝行の兄弟として二人を描かれているようですが、

様々な事を考えてみると「この事件の真の目的は何だったのでしょう?」という疑問が生じてきます。

もしかしたら、北条時政を中心とした「源頼朝暗殺計画」だったのかもしれないという説もあるようですが・・・。


~曽我兄弟ゆかりの曽我の里~


曽我兄弟像

曽我祐信と満江御前の五輪塔

曽我兄弟の五輪塔













富士巻狩りと仇討ち

鎌倉手帳



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