別冊『鎌倉手帳』

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2017年8月12日土曜日

以仁王と源頼政の挙兵

1159年(平治元年)に起こった平治の乱

この戦いで、源義朝をはじめとする有力な源氏武士が滅亡。

勝利した平清盛は武士の第一人者となりました。

1167年(仁安2年)には、武士としては初めての太政大臣に昇り、全盛期を築き上げていきましたが、後白河法皇との間に亀裂が入るなど、次第に平氏政権がゆらぎ始めます。

1179年(治承3年)11月、クーデターによって後白河法皇を幽閉。

翌1180年(治承4年)2月には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させ独裁政治を行っていました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~以仁王挙兵~

『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)4月9日、源頼政は子の仲綱とともに以仁王の三条高倉御所へ行き、平家打倒を進言。

以仁王はその申し入れを聞き入れ、伊豆の源頼朝をはじめとする源氏に令旨を発しました。

(※親王宣下もされていない王の命令書は「令旨」とは言わないようですが・・・)


その令旨は4月27日に伊豆の北条館にいた頼朝のもとに到着。

頼朝は水干を着て、源氏の氏神・石清水八幡宮を遙拝してから読んだのだといいます。


 北条氏邸跡
(伊豆の国市)

(京都)


しかし、以仁王の計画は5月初めには平家に知られてしまいます。

5月15日、以仁王は園城寺(三井寺)に入り、19日には源頼政も近衛河原の自邸を焼き払い園城寺に入ります。


 園城寺
(滋賀大津)


ただ、園城寺には僧兵が少ない事から、5月26日、南都へと向かうのですが・・・

宇治で平家軍2万騎に追いつかれ、以仁王と頼政は討死しました(平等院の戦い)。


 源頼政の墓
(平等院塔頭・最勝院)

源頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏。

平治の乱後、源頼朝が伊豆に流されたのは、頼政が伊豆守だったからという説もあるようです。

「平家にあらずんば人間にあらず」とまで言われた清盛政権の中で、源氏では珍しい従三位に叙せられ「源三位」と称されていました。


源頼政

以仁王

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~南都とは・・・~

以仁王と源頼政が目指した南都とは興福寺のこと。

平安時代末期、興福寺延暦寺園城寺(三井寺)・東大寺などを拠点に僧兵が強大な武力集団を組織していました。

「南都北嶺」という言葉がありますが、南都は興福寺、北嶺は延暦寺を指します。

興福寺の僧兵は「衆徒」あるいは「奈良法師」、延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれていたようです。

白河法皇は、自分の意のままにならないものとして、

☆賀茂川の水

☆双六の賽

☆山法師

を挙げていたのだといいます。


 興福寺

 東大寺大仏殿

 比叡山延暦寺

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その後・・・

6月2日、清盛は福原京へ遷都を強行。

8月17日、源頼朝挙兵。

10月6日、源頼朝鎌倉入り(10月7日という説も)。

10月20日、富士川の戦いで平家軍敗走。

11月26日、平安京に還都。

12月28日、南都焼討

翌年閏2月4日、平清盛死去。

やがて、京は木曽義仲に奪われ平家は都を落ちます(1183年(寿永2年))。

その後都に戻ることなく、1185年(文治元年)3月24日、源頼朝によって壇ノ浦に滅ぼされました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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 源頼朝配流地

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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