別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2016年3月19日土曜日

静御前が舞う鎌倉まつり2016/04/10

静御前は京の白拍子。

1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を集めて「雨乞いの舞」を舞わせました。

99人までが舞っても雨が降りませんでしたが、100人目の静御前が舞うと3日間雨が降り続いたのだといいます。

その後、「住吉での雨乞い」の際に源義経に気に入られ妾となったと伝えられています。



源義経は、源頼朝の異母弟。

平家を壇ノ浦に滅亡させた英雄です。

しかし、頼朝と対立し、1185年(文治元年)11月6日、都を落ちます。

静御前も同行していましたが、大物浦で暴風雨により難破。

義経と静御前は、数人の供とともに吉野山に逃げ込みましたが、2人はそこで別れます。


その後の義経の消息は不明となりますが、静御前は蔵王堂に辿り着いたところを捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られてきました。


静の舞


そして、頼朝から鶴岡八幡宮での献舞を命じられたのは4月8日の灌仏会のときでした。

静御前は義経を慕う今様にあわせて舞います。


「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」


頼朝には不興を買ったようですが、参列した者のほとんどが「舞に心を動かされた」という状況だったようです。


その後も静御前は鎌倉に留め置かれました。

義経の子を身籠もっていたのです。


7月29日、男子を出産。

生まれてくるのが女子であれば命は助けられたのでしょうが、男子の場合は将来に憂いを残すので殺される運命にありました。

生まれたばかりの赤子は、頼朝の命により由比ヶ浜に捨てられました。


れから2ヶ月後、静御前は、母・磯禅師とともに鎌倉を発ちます。

その後の静の消息はわかりません。




鶴岡八幡宮流鏑馬馬場には、静御前の終焉地とされる福島県郡山市から「静桜」が植樹されています。







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吉野山

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源義経

静の舞

静の舞


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