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2021年9月15日水曜日

吾妻鏡が伝える奥州藤原氏三代


奥州藤原氏三代とは、藤原清衡・基衡・秀衡のこと。


1189年(文治5年)9月23日、平泉館を焼き払い北方へ逃げた藤原泰衡を追って厨川にいた源頼朝は、平泉に戻ると無量光院を参詣しています。


『吾妻鏡』によると、そのとき頼朝を案内した清原実俊は、奥州藤原氏三代について以下のように説明しています。


清衡は、継父・清原武貞(鎮守府将軍の清原武則の子)亡き後、奥六郡(伊澤、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井)を伝領し、嘉保年中(1094-1095)頃に江刺郡豊田館を平泉に移して宿館とし、33年後に亡くなった。

陸奥と出羽の両国には、一万余の村があり、村ごとに寺院を建て、その燈明用の油代のための水田を寄付した。




基衡は、父を超える財福となって両国を官領し、33年後に亡くなった。




秀衡は、絶えすたれた寺院を再興した。

鎮守府将軍となってからは、官職も父や祖父を越えて、その栄耀は子弟にも及んだ。

33年を経て亡くなった。




この99年間に、建築された寺院や堂塔は、幾千万か数え切れません。



『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代のそれぞれの治政は、いずれも33年という年月だったようです。


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