別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月24日日曜日

伝説の観音さまと四万六千日詣り

古くは「朝詣り」とも呼ばれた「四万六千日詣り」

8月10日にお詣りすると4万6千日の間お詣りしたのと同じご利益があると伝えられています。

かつて、三浦半島の人たちは、提灯を下げ、名越の山を越えて、杉本観音長谷観音田代観音を巡り、最後に逗子の岩殿寺を巡って帰宅したといいます。


杉本観音
鎌倉最古の寺といわれる杉本寺は、行基によって創建されました。
「大倉観音」「下馬観音」「覆面観音」とも呼ばれています。
板東観音巡礼一番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page042sugimoto.htm


『吾妻鏡』には・・・

1189年(文治5年)11月23日夜、大倉観音堂(杉本寺)が火事に遭います。
別当の浄台房は、観音像を運び出すため火の中に入っていきました。

誰もが死んでしまうだろうと思っていましたが、観音像を運び出すことに成功したといいます。

法衣は焦げていましたが、身体はなんともなかったそうです。
観音さまは火にも焼かれないということでしょうか。

といったことが記されています。


一方、『杉本寺縁起』では・・・

火事に遭った観音さまは、一人で杉の木の下に避難したと伝えています。
そして、人々は「杉本観音」と呼ぶようになったのだと・・・。


その他、寺の前を馬に乗ったまま通ると落馬するので「下馬観音」とも呼ばれていたといいます。

そこで、蘭渓道隆が祈願し、袈裟で観音さまを覆ったところ落馬がなくなったことから、「覆面観音」とも呼ばれていたそうです。



長谷観音
木造では日本最大級の十一面観音像です。
板東観音巡礼四番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm


721年(養老5年)、諸国を巡っていた徳道は、大和国で巨大なクスノキを発見します。

徳道は、このクスノキで二体の観音像を造らせました。

一体は大和国の長谷寺に安置され、もう一体は「有縁な地に行って、衆生済度を施したまえ」ということで、行基によって大阪の海から流されました。

それから歳月が流れ、16年目の736年(天平8年)になって三浦半島の長井浜に漂着したといいます。

そして、現在の地に観音堂が設けられ、新長谷寺と称されたと伝えられています。

長谷寺の十一面観音像は、「長谷寺式」とも呼ばれ、右手に錫杖を左手に蓮華を持った独特な像です。



田代観音
安養院は、比企ヶ谷にあった田代観音堂が移されたことから、
「田代寺」と呼ばれています。
板東観音巡礼三番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page126anyoin.htm


本尊の千手観音は、田代信綱の観音像を胎内に納めた像であることから、「田代観音」と呼ばれています。

田代信綱の観音像は・・・、

986年(寛和2年)、僧奝然(ちょうねん)が宋に渡ったときに手に入れたものなのだそうです。

そして、歴代天皇に信仰されたということです。

その後・・・、

後三条天皇から第三皇子の輔仁親王→その子の花園左大臣有仁卿→その子の伊豆国司中納言為綱卿→その子の田代信綱に伝わったといわれています。

したがって、信綱は後三条天皇の後胤ということになります。

信綱は、源頼朝が挙兵をするとこれに従い、戦陣に向かうときは必ずこの観音像を携えていたといいます。


岩殿観音
逗子の岩殿寺は、行基の十一面観音が安置されています。
源頼朝実朝も訪れた寺です。
板東観音巡礼二番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/gandenji.htm


四万六千日
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/simanrokusen.htm
鎌倉観音巡礼
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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